イ草の歴史

イ草の原産地はインドであり、シルクロードから朝鮮半島を経て日本に伝わったとされています。

日本のイ草の歴史は1300年と言われていますが、2000前の縄文式土器の頃にイ草を編んだ織物が縄文式土器とともに青森県の遺跡から発掘されています。
更に、4000年前の堅穴式住居の遺跡からもイ草が見つかり、この頃から敷物として用いられていたと考えられています。

古代初期には莚(むしろ)や薦(こも)を座具に使っており、何枚かを縫い合わせて布で縁取りしたものを「畳(たたみ)」や「帖(じょう)」と呼んでいたそうです。

西暦600年頃の中国の正史「隋書 東夷伝」には、「草を編みて薦(こも)となす、雑皮にて表を成り、縁るに文皮を以ってす」とあります。
また「倭名人」には『太々美』(たたみ)の文字が記されています。

「古事記」に倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の際、弟橘姫(わとたちばなのひめ)が入水のくだりに、
「海に入らんとするときに、菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を波のうえに敷きて、その上にくだりましき」とあり、また神武天皇の御歌にも「あし原のしけき小屋にすが畳いやさやしきて我二人ねじ」ともあります。

正倉院には聖武天皇と皇后が使用した畳(薄い筵にい草の表が張られ、縁かがりがされているもの)が残されています。

正倉院

平安時代

平安時代になると、建物の中で円座や置き畳が多く使われました。
置き畳は人の席に当たる部分に敷き置かれました。
この時代は木床の一部でのみ畳が使用されました。畳は厚みが加わるとともに大きさの規格化が進められました。延喜式(※)では、階級により畳の大きさや縁の色が定められています。
この置き畳として使われている様子は絵巻物等にも描かれています。

※平安時代中期に編纂された三代格式の一つであり、律令の施行細則を纏めた法典

平安時代の様子

室町・江戸時代

室町時代になると次第に小部屋が増え、畳を敷き詰める部屋が多くなりました。
それに伴い多種多様な畳が無くなり、敷居も床板より一段高くなりました。
桃山時代から江戸時代へと移り、茶道の発展に伴って草庵風茶室が発達し、数奇屋風書院造に変わっていきます。
炉の位置によって畳の敷き方が替わり、日本独特の正座が行われるようになったと言われています。

江戸時代に入ると、畳そのものが重要な建築物の要素として見なされるようになり、城や屋敷の改修工事を司る役職として畳奉行が任命される例も見られるようになりました。

江戸時代の様子


江戸中期以降に庶民が畳を使えるようになった事で、畳師・畳屋が活躍します。

近年では中国などの外国産の安価な畳表が多く輸入されるようになり、2007年以降は畳表の供給量に対し国産畳表の割合は20%前後にまで低下し、さらに住宅居室の洋化によって畳の需要が低下し、国内イ草生産農家は減少し続けています。

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